人生を考えた

久々に出張に出かけて、移動の間に本を読むことができました。
フォーサイトの書評に出ていた「生物と無生物のあいだ」です。
すでに8刷まで来ているので結構売れているみたいですが、いままで知らなかった。。。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

内容としては分子生物学についてですが、非常に心に留まる一文がありました。

生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、
同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。(エピローグより)

すなわち、生命は不可逆性を持っている、常に動いていないと死に近づいていく、といったことを意味します。

生命の不可逆性

時間が元に戻せないということは昔から分かっていることですが、
科学技術の進歩と共に、擬似的に時間を戻してしまうことが可能になっています。
機械などはもとより究極的にはクローン技術によって生命すら「擬似的に」作り直せるわけです。
そのような環境に慣れてくると、生命軽視の風潮が懸念されます。
現実に、殺人行為に簡単に踏み込んでしまう人が増えてきている傾向にあるわけですから。
(殺人者が増えているというのは私のイメージで統計的裏づけはありません)
著者がエピローグで書かれているのですが、彼の原体験は子供のころの昆虫採集や生物の飼育から得た
いろいろな経験にあるそうです。
社会全体としてそういう経験ができる環境を整えるのがよいのでしょうが。。。

動的平衡

常に動くことによりエントロピー増大による死を回避するというエピソードで、
人生について考えてしまいました。
よくある例ですが、80歳になっても元気で活躍していた政治家が引退した途端に老いが進み、
ほどなく大往生してしまうことがあります。
こういったことはまさに人間が動くことによって代謝を良くして、老いを遅らせているのだと思います。
私はまだ33ですが、気分的に守りに入ったりすることが多々あります。
たぶんもっと攻める姿勢で生きていかないと早死にするんでしょう。

生命の柔軟性

分子生物学ではノックアウト実験といって、ある特定のDNAを破壊して、
本来持つべき機能を失わせたマウスを生み出して観察する手法があるそうです。
(私の仕事は電子デバイス製造ですが、似たような手法を使って開発や解析をします。こちらは何度でもやり直せるので楽)
それについてのエピソードで、
すい臓細胞で分泌された物質を外に送り出すために働く重要なたんぱく質をノックアウトしたマウスにおいて、
そのたんぱく質が全く無いにも拘らず、すい臓の機能としては健常なマウスとなんら変わらなかったといいます。
これが意味するところは、生命には成長の過程において欠損パーツがあった場合速やかにバックアップ機構が働き、
他の物質で機能を代替してしまうような柔軟性があるということです。
ところが別のエピソードで、
狂牛病でおなじみにプリオンについての研究では、正常プリオン自体をなくしても前述のバックアップ機構が働き
全く問題ないが、無くすのではなく異常プリオンに置き換えてやるとバックアップ機構が働かず機能に異常が生じるそうです。
このあたりが生命のたくましさと脆さの両面を映しており、なんとぎりぎりのところで生きているんだろうと感じました。

会社に置き換えると

前項の内容を読んで、私はついつい会社のことを連想してしまいました。
つまり、ある重要人物が突然辞めてしまったとして、いなくなったら仕事にならないと思っていたけれど
いざそうなると周りが穴埋めしたり、新しい人を連れてきたりして何とかなってしまうものです。
ですが、例えば睡眠時無呼吸症候群とか若年性アルツハイマーとかの本人に自覚のない病気になったとして、
本人は今までと変わらないつもりだがミスを連発する、周りはその後始末に追われるが今までの働きもあり変えられない、
そのうちエスカレートして仕事として機能しなくなる、、、
いかにもありそうな話です。
生物の内部で起こっていることと、生物が集まってできた社会で起こっていることは相似形であると、そんな気がします。